ジャズと生きる 穐吉敏子 

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 著者は今や日本を代表するジャズ演奏家、作曲家です。しかし現在の地位を得るまでにさまざまな苦難がありました。満州での出生から、戦後日本へ帰還するまでの道のりは多くの人がよく語っています。全く似たような事情であったようです。
比較的に恵まれていた満州での生活も、敗戦で一変。髪を短く切り、食べるものも満足にない中での福岡上陸でした。
陸軍看護婦になるという当初の希望もいつのまにか消えてしまいます。彼女を支えたものは音楽への情熱でした。というよりピアノそのものから離れることができなかったのです。
食べるものに不自由する中で、彼女は一家の生活を支えることになります。ピアノが弾けたからです。それもクラシックではなく、ダンスホールの伴奏からジャズまでの広いレパートリーでした。
やがて福岡での生活に飽きた彼女は単身東京へ出ます。進駐軍のショーバンドでピアノを弾きながら、サックスに渡辺貞夫を迎えて発足したカルテットに入ります。
銀座のナイトクラブでピアノを弾きながら、もっと本物に触れたいと真剣に思うようになりました。
そんな時、ボストンにあるバークリー音楽院が奨学金付きでの招請をしてくれます。当時、外国へ行くということはそれだけで、大変なことでした。まだプロペラ機の時代です。
日本人に対する人種偏見もあり、彼女のアメリカ生活はそう容易ではありませんでした。ただ一つ残ったものは、ピアノに対する情熱だけだったのです。
その後の結婚、破綻。一人娘を日本にいる姉に託して、穐吉はさらに作曲、演奏に力を入れます。
やがてサックス奏者、タバキンとの再婚。そしてバンド結成。カーネギーホールでのソロ演奏、帰国公演と自分との戦いでした。何度ジャズをやめようかと悩んだとあります。娘との確執もありました。本当に困って、自分の将来を僧侶に相談したこともあるそうです。
また孤独であることを自らに強制しなければ、作曲活動はできないともあります。そうした中でたくさんの名曲が生まれました。
代表作「孤軍」や「すみ絵」などは日本人でなければできない曲だと言われています。
その彼女も偏見の嵐の中でグラミー賞を手にすることができません。女性に対する蔑視もあります。元々、ジャズは男の音楽だと彼女は言います。だから太ってはいけない。醜いままではいけない、男性と同じではだめだと自らに言い聞かせたそうです。
元来、黒人の音楽だとされてきたジャズも、長い時間をかけ、次第に変容してきました。だから日本人のつくるジャズが認められる下地もできてきたという訳でしょう。
ものをつくる人間は豊かになりすぎてはいけない。明日たべるものに苦労しなくなったところから、本当の戦いが始まるという彼女の言葉には、苦労を積み重ねてきただけの体験の重みがあります。

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