奇貨居くべし 宮城谷昌光 文藝春秋 2004年4月

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 全5巻をやっと読み終わりました。『呂氏春秋』を編纂した人として、また始皇帝の父ではないかと言われている男の生き様を描いた本です。
著者の本はこれで何冊目にあたるのでしょうか。春秋戦国時代に生きた人々を描かせたら、宮城谷の右に出る人はいないでしょう。大変な勉強家です。それが筆のあちこちにさりげなく滲み出ています。
読者の中には教訓臭を感じ取る人もいるといいます。しかしそれが時に心地よいのです。なるほどと感心させられてしまうような表現があちこちに散りばめられています。
よく経営者は司馬遼太郎の作品を愛読しているようですが、宮城谷の作品にもそれに似たものを求める傾向が強いのかもしれません。乱世を生き抜く指針をここから得たいと強く感じる者にとっては、珠玉が散りばめられているといっても過言ではありません。
主人公呂不韋は商人の子供として生まれました。当時、商人は大変身分が低く卑しい職業として蔑まれていたようです。実の母の子ではないということもあり、あたたかく育てられなかったということが、彼の人を見る目を養ったというのも、皮肉な話です。
そこから秦の宰相になるまでの道のりの遙けさは、想像を絶するものです。しかし孟嘗君にたくさんの食客がいたように、彼の周囲にもたくさんの有能な人々が集まってきます。
呂不韋は彼らをきちんと処遇し、適材適所とはまさにこのことだろうという明確な視点を持ち続けるのです。その結果、彼らは生き生きと活躍を続けます。それぞれの土地で出会った名もない人が、やがて成長し周囲をかためていきます。
それを見分けるのが、彼に与えられた天命だったのかもしれません。宮城谷は何度も出会いを描きます。それが悉く潔い心にしか映らない他者の姿なのです。直感を大切にします。そしてこの人はと見込んだら信用します。人へのひたむきな信頼が、他者を大きく成長させていくのです。
さらに自分に対しても大変厳しいです。「貧困の中にあって人を怨まずにいるのは難しいが、富裕を得て驕らないのはやさしい」。自制、謙遜がいかに難しいかをいつも自覚していました。
冷遇されていた子楚をかつきあげて、秦の太子にしてしまうところなどには超一流の策士の面もみられます。そのために持っている金を全てつぎこんでしまうという、破天荒なことまでやってのけます。
次々と起こる事件にのみこまれ、時代の中で翻弄させられますが、軸は動きません。道家と儒家の思想を合一し、それを時に使い分けていきます。天下は一人のための天下に非ざるなり。天下の天下なりという思想が彼を貫いていました。
また宮城谷は女性を描くのが実にうまいです。これは彼の著作を読んだ誰もが口にします。天命とでも呼ぶべき出会いが、何度も出てきます。女性に瀕死の状態から助けてもらう場面などは、実に甘く見事というしかありません。
秦はやがて大国になり、その後呂不韋の望んだ姿とは全く別の国になっていきます。それも政治というもののダイナミズムなのかもしれません。一つの時代をともに駆け抜けたような気になります。気宇壮大な世界がそこには現出されるのです。
ぼくにとってはこの上もない楽しい二週間でした。あまりにも理想化されすぎているという批判もあるようです。実際の呂不韋はもっと複雑で怪異な人物だったのかもしれません。それもこれも含めて、読書の楽しみと言えるのではないでしょうか。

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