大落語論

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柳家権太楼という噺家はとにかく寄席を大事にします。
きっとあの空気、気配が好きなんでしょう。
そうとしか思えません。
高座の数も年に400回とか500回とか、いや600回は超えているという話です。
膝を悪くしたり、入院したり、あちこち具合が良くなくても、しばらくすると、また寄席に戻ってきてくれます。『代書屋』などという噺は権太楼でなければ面白くない。
枝雀も面白かったけれど、東京では彼しかいないでしょう。
何度聞いてもバカらしく、それでもつい笑ってしまう。
大きな声で「生年月日」と叫ぶ時、彼の表情には間違いなく落語の神が降臨しています。
『町内の若い衆』『つる』『疝気の虫』もおんなじです。
実に品のない登場人物がこれでもかと出てきます。そのたのしいこと。さん喬の『井戸の茶碗』を聞いてから、権太楼のを聞くと、とても同じ噺とは思えません。
だからこその権太楼なのです。
『大落語論』というこの本は、時々無性に読みたくなります。
彼の落語に対する覚悟が全篇にわたって語られているからです。聞き手の塚越孝があんな形で亡くなるとは、思ってもみないことでした。噺家はいつ世の中に出られるか、わからない。
一度世に出ても消えてしまうことが多々ある。
談志は小ゑんの時の方がよかった。
噺家が死んで泣いたことはない。
唯一泣いたのは志ん朝師匠の時だけだった。
あの時は本当にこれからどうしていいか、わからなくなった。とにかく芸協の落語じゃない、柳家の噺がしたかった。
柳昇のとこに紹介してやると友達に言われた。でも断った。親のことや、師匠のことなど、それはそれはいろんなことを権太楼流に語ってくれています。
素人が何をやっても怖くはない。
土俵が違う。だから素人に負けるわけはない。
風間杜夫しかり、高田文夫しかり…。
毎日が自分の人生をかけての綱渡りそのものだ。
なんの保証もない。
18人抜いたと言ったって、次にはまた抜かれる。
他の噺家の落語が冷静に聞けるようになって、はじめて本当の修業が始まる。

権太楼語録をいくら書いてもきりがありません。
芸の世界に身を置くということは、想像を絶する孤独との戦いです。

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