吉朝庵

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落語
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上方の噺家についてはあまりよく知りません。
どうしても江戸落語に傾きがちなのは、東京の文化により親しんでいるからでしょう。
しかし落語の稽古を始めてみて、予想以上に上方の噺が江戸に流れこんでいることを知りました。
もちろん題名だけでなく、場所も設定もかえてあり、さらには登場人物の名前も違います。
しかし笑いに対する感覚の鋭さには、あらためて舌を巻きました。

上方の落語は大道で演ずるのが通常でしたから、江戸のそれとは明らかに形が違います。
滑稽噺が中心で、さらには下座音楽が噺の中によく入ります。

今まで桂吉朝といえば、桂米朝の弟子だったことくらいしか知りませんでした。
しかしこの本を読んで、あらためてその芸の凄さに感心しました。
50歳の若さで早逝しなければ、彼が米團治の名跡を継いだことでしょう。
米朝の11番目の弟子になります。
後に師匠はインタビュアーに対して、落語のことは吉朝に聞いてくれと言ったそうです。
それだけ信頼が厚かったといえるでしょう。

長生きも芸のうちです。
米朝は枝雀、吉朝を失い、つらい日々を過ごしたことと思います。
年月を経るにつれ、次第にその評価が東京でも高くなっていきました。
国立小劇場で開催されている「落語研究会」に呼ばれるようになったのは、91年のことです。
小さん、志ん朝、権太楼、さん喬、米朝、春団治、枝雀など、ここに出るということが、現在も噺家のステータスの一つになっています。

この会に吉朝は2003年までに17回出演しました。トリを8回、中入り前のトリを6回とっています。
一朝、馬桜の両師匠も吉朝の噺が好きでした。
彼の落語は江戸前だといいます。
いわゆる大阪の噺家らしくない、さらりとした話し方や仕草が、東京人に受け入れられたのです。

それだけに、浪花型の噺家、桂ざこばなどからは嫉妬も受けました。
彼が得意にしている「天災」を吉朝がちょっと軽い噺だと口にした時、その後はしばらく楽屋でもきつい扱いを受けたこともありました。
吉朝が亡くなってから、ざこばはこんなことを言っています。
「ぼくから見ると、吉朝やんは落語のテクニックを早くおぼえすぎたんとちがうかな。ほんまは一つ一つ苦労しながらつかんで上がっていくとこを、彼の場合は途中をとばして、いきなり高いレベルのテクニックを手に入れたと思うねん。晩年はそんなとこが嫌になって、ほとんど彼の高座を聞かんようになってしもた。今思うたら、ぼくの焼き餅やったんかもしれんね」

2005年、10月。米朝、吉朝の会で「弱法師」を高座にかけました。最初は2題のつもりがとてもできる状態ではありませんでした。
ホスピスから会場へ直行しました。
胃がんが進行していたのです。
その10日後に心不全で逝去しました。

一門会で吉朝が「ふぐ鍋」をやった時、ソデで聞いていた師匠米朝は「うまいなあ、こんだけのふぐ鍋、わしはようせんなあ」と呟いたとか。
今、聞いても彼のふぐ鍋は絶品です。

吉朝はたくさんのいい弟子を育てましてた。
今、活躍している彼らが、吉朝の芸を正しく継いでくれることを祈りたいと思います。
長生きも芸のうち。
芸人は早逝してはいけません。
息子さんが書いたこの本がなければ、吉朝の生き様に触れることはありませんでした。
感謝したい気持ちで一杯です。

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