時が滲む朝 楊逸 文藝春秋 2008年7月

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 昨年、中国人作家としてはじめて芥川賞受賞というニュースが新聞に大きく取り上げられました。今回機会がありましたので、その作品を読んでみることにしました。
内容は地方から出てきた学生が天安門事件にからめとられていく時代の様子、その後大学を放逐され、日本にやってきてからの生活を描いた二つのシーンから成り立っています。
大学に入るということが少し前の中国ではどういう意味を持っていたのかということが、手にとるようにわかります。高等教育を受ける以外、貧農の生活から浮かび上がる方法はなかったのです。
そのために主人公の二人は毎日遅くまで教室で勉強し、やっと大学という出世のための切符を手にいれます。
何もない黄土の隣村から都会に出てきた二人の青年にとって、あらゆるものが新鮮でした。そこから天安門事件までそれほどの距離ではなかったのです。
入学直後から、彼らに大きな影響を与えた大学教師、女子学生。彼らを中心にして、やがて政治の季節がめぐります。そして次第に彼らもその波の中に巻き込まれていくのです。祖国のために少しでも何かをしたいという純粋な気持ちが、不思議な引力の中心に吸い込まれていくのです。
そしてその後の退学処分。親の嘆きをまともに受け、彼らはどこへ行けばいいのかわからなくなります。
幸い、主人公の一人は親戚が日本にいたため、そこへ逃亡。
後半はその後の生活が描かれます。日本は中国にいた時想像もできなかった風景の中にありました。自分たちがかつて要求していた民主化とはなんだったのかと自問自答する日々が続きます。
やがて彼は日本人と結婚。子供が生まれ、生活の安定が最重要事項となっていきます。その間にもかつての先生はアメリカへの亡命から、さらにフランスへ逃げたことも知ります。もう一人の友達は中国でデザイナーになるため、必死にもがいています。
時代はもう手紙の交換を許しませんでした。かつての友達との間でメールが頻繁にやりとりされます。皆が生活の安定を求めていました。
主人公はそうした日々を悶々と暮らしつつ、時に尾崎豊の歌を口ずさみます。やがて二人目の子が生まれ、フランスへ逃亡した先生が中国へ帰る前に日本に立ち寄ることになりました。
空港で出迎えた彼の隣にはかつて恋愛感情を抱いた女子大生の姿もあったのです。衝撃でした。中国に置いてきた妻はなくなり、子供にも見放された先生は、かつての教え子と同棲していることを告白し、祖国へ帰って小学校の先生になると告げるのです。妻も子供も幸せにできない人間に、国を語る資格はないと呟きます。
ふるさとって何と訊く子供達に、ふるさとは自分の生まれたところ、そして死ぬところ、お父さんやお母さんのいる温かい家だよと日本語でささやく主人公の台詞を最後に、この小説は終わります。
全編を読みながら、こういう小説が今の時代に大きな賞をとるということの感覚に少し違和感を感じました。
最近はこれほどに政治を前面に出した作品を読んだ記憶がありません。それだけ、今の日本は政治が文学から抜け落ちているのかもしれません。
かつて高校時代に読んだ柴田翔の『されどわれらが日々』を懐かしく思い出しました。あの時のなんともいえない気分に近いものを感じます。あの作品よりはずっと地に足がついているようにも思えます。ナルシシズムもそれほど強くありません。
現在大学を卒業した学生のうち200万人が就職できないという中国の実情を知るにつけ、天安門事件の時代はとうに去ったのかなという気もします。
ぼくも以前あの広場を訪れたことがあります。装甲車に踏みつぶされた学生達の数が未だに正確にはわかっていません。数百人とも数万人とも言われています。中国はどこへ向かっているのでしょうか。いずれにせよ、権力闘争が起こした、かつての大きな汚点であることに間違いはありません。
それがこうして20年もたってから小説に結実するところが、文学の持つ包容力なのかもしれないのです。
不思議な味わいの本でした。

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