真打の話です。ここにあげた写真はいずれも落語協会のもの。落語芸術協会にも当然今年新しい真打が誕生しました。
しかしマスコミの扱いは断然、落語協会の方が突出していました。特にこの春の春風亭一之輔フィーバーはすごいものでした。
真打とはそも何か。
ここに今日の課題の全てがあるといってもいいのかもしれません。
かつて立川談志が協会を離れたのも、圓生が小さんと喧嘩別れしたのも、全てこの話が発端です。
もともとは昔、灯が全てロウソクだったため、トリで出演する芸人が最後にロウソクの芯を打ちました。(火を消した)
そこから転じて真打と呼ばれるようになった、というのが最も有力な説です。
以前は前座修行から15年程度過ぎた人を自動的に真打にしていました。今でも落語芸術協会はそうです。
するとどうなるか。
噺家の半数が真打だという現在のような逆ピラミッド型のいびつな構造になってしまいました。
それを嫌って試験をした時代もあります。あるいは10人くらいまとめて真打にした時もあります。
これが絶対というシステムがないというあたりが本音なのかもしれません。
だから真打になってやっとトリがとれると思ったのもつかの間、披露興行の時だけだったという笑えない現実もあります。
どうしてこんなに噺家はこの制度に一喜一憂するのか。
それは香盤(同一協会内の落語家間の序列)と密接に関係しているからです。
真打になった時が芸人としての、終生変わらぬ立ち位置なのです。
人気、実力に関係なく上下関係が決まります。矛盾しているといっても、これが厳然としたタテ社会の現実です。
今春のように一人真打で20人以上抜いての抜擢ということになれば、その間にいる噺家の心中は穏やかではありません。
真打になれば、弟子もとれます。師匠と呼ばれるようにもなります。
昨今では大きなホテルを使って、大々的に披露パーティをやるようにもなりました。
それに続く50日間の披露興行もあります。
もちろん、莫大な費用がかかります。
それでもみな真打になれる日を夢見て精進を続けているのです。
通常は席亭と協会の幹部で決めます。だから誰も文句が言えません。それだけに抜かれた人たちの悔しさは内側に鬱屈していきます。
古今亭菊之丞が真打になった時も、中身を少しだけ食べた弁当をきちんと包装しなおし、それがある幹部に配られたという事件がありました。
春風亭小朝の時はもっとひどかったようです。
嫉妬が渦巻きます。
客にはみえない芸人のもう一つの顔です。
このシステムをいっそやめてしまったらという意見もないわけではないのです。事実、上方にはありません。
圓楽党は15年もかからずに真打になっています。
つまり談志が全てのモノサシだったのです。
今後、立川流の真打昇進は誰が決めるのでしょうか。
今年の落語協会は3人だけが真打昇進を果たしました。
機会があったら、もう少し続けましょう。