昭和の爆笑王・三遊亭歌笑

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面白うて、やがて哀しきというのが、読後感です。
わずか5年間のためにその人生をすべて費やしたというのが、この噺家の一生だったのではないでしょうか。
痴楽綴り方教室というのは、かなり聞いた記憶があります。
しかしその先輩にあたる歌笑の純情詩集は耳にしたことがありませんでした。

五日市の名家に生まれながら、あまりにも特徴的な顔つきのため、いつも日陰者だったという前半生の生い立ちを読んでいると、気の毒でなりません。
家族の結婚式などにも出たことがないそうです。悪い血が流れているのではないかと噂されるのを恐れた親族が、みんなで彼を座敷牢的な生活に追いやったのです。
なんとかして、自分の道を探したい。その苦悩の果てが、落語家という可能性にかけることだったのでしょう。

はじめての家出。
五日市から新宿まで歩いて、当時の人気者、柳家金語楼に弟子入りしようと試みました。
警官にみつかり、すぐ家に連れ戻されます。
家族の監視下におかれ、数年が過ぎた頃、再び、家出。
今度は本当に金語楼に会うことができました。
生家が近かったこともあり、金語楼は彼の亡くなった父親を知っていたのです。
今まで、他人にばかにされ、軽蔑され続けてきた生き様を語る彼の言葉に金語楼は打たれました。
役者としてなら、弟子にするとまで言いましたが、どうしても噺家になりたいということで、金馬のところへ。

ここから金馬という人のあたたかさが活写されます。
読んでいて、なるほど、こういう人だったのかということがよくわかりました。
確かにしつけなどは厳しい。しかしその底にあふれる愛情を持っていた落語家です。
東宝専属だった金馬の弟子としては、寄席に出る機会が全くありませんでした。
数年の間、暗い修業時代を過ごします。
たまに高座に出てもお客はくすりともしません。
顔を見ただけで引いてしまうのです。

その当時、知り合いになった五代目柳家小さん(当時、小きん)は他の人と同じやり方ではうまくいかないと助言します。
やがて日中戦争から太平洋戦争へ。
何をしても受けない歌笑は突然、高座で歌をうたい、先輩にこっぴどく叱られます。しかし客は笑いました。何がおかしかったのか。そのことばかりを考えます。そしてたどりついたのが、あの歌笑純情詩集というスタイルでした。
しかし15分やると長い。12分で切り上げろと助言してくれたのも親友の小きんでした。
偶然出番のあいた寄席でやったこの落語で、彼は一躍時代の寵児になります。
今までの暗い半生をバネにして、時代の中へ切り込んでいきました。
難しい昔ながらの落語をもう誰も必要とはしていませんでした。
つらい日常を忘れさせてくれる芸ならばなんでもよかったのです。
一つ紹介してみましょう。代表作です。

ブタの夫婦がのんびりと 畑で昼寝をしてたとさ
夫のブタが目をさまし 女房のブタにいったとさ
いま見た夢はこわい夢
オレとおまえが殺されて こんがり カツにあげられて
みんなに食われた 夢を見た
女房のブタが驚いて あたりのようすを みるならば
いままで寝ていた その場所は
キャベツ畑であったとさ

先輩の落語家達には総スカンをくいました。文楽が認めてくれなかったら、寄席にはでられなかったのです。
嫉妬の渦が楽屋中に広がります。悲しい芸人の性です。
結婚もし、家もたて、これからという時、まさにすべてが順調に進み始めていた時でした。
大宅壮一との対談を終え、建物を出たところで、当時の進駐軍の車にはねられ即死したのです。片方の目が不自由で、もう片方も弱視だったのです。
わずか31年の生涯でした。
朝鮮戦争が始まり、特需景気にうかれ、やがて、彼の芸風をそのままうけついだ林家三平の時代がやってきたのです。
読んでいて、時に笑ってしまうところがたくさんありました。
特に金馬の弟子として、犬の散歩途中での逸話や、鈴虫の世話の話などすこぶる愉快です。
これも確かな人生だなとしみじみ感じました。

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