談志が死んだ

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立川 談四楼の最初の著作 『シャレのち曇り』を読んだのは今から何年前のことでしょうか。
真打昇進試験に落ちた時の話です。
ここから現在の立川流が始まったのです。
軽い筆致ではありましたが、内容はかなり厳しいものでした。

さて今回は『談志が死んだ』の話です。
面白いタイムリーなタイトルだなどと茶々を入れるつもりは毛頭ありません。しかしこれは以前から使われている回文です。
つまり、頭から読んでもお尻から読んでもおんなじ…。

ああ、また談志の本だと思ったことだけは、本当です。どうしてこの噺家に関する本ばかりがこうして巷に出るのでしょう。
それだけユニークな人だったということなのかしらん。
一番おもしろかったのは談春が『赤めだか』を書いた直後、筆者が書いた書評をめぐっての談志の切れかたです。
このあたりで完全に家元は錯乱していたとしかいえません。
頭ごなしにどなられ、40年も自分の弟子だった人を破門にすると怒鳴り、その後まったくとりつく島をあたえませんでした。
驚いたのは筆者の立川談四楼本人です。
どうして弟弟子の本を褒めてはいけないのかが、全くわからなくなりました。どこでしくじったのか。
それさえも見当がつかないまま、とにかく根津の自宅に詫びを入れにいきます。
その際、何をみやげにもっていったらいいのか。頭の中の知識を総動員します。しかし結局会ってはくれません。

結論からいえば、その後談志から電話がありました。全部忘れろという電話一本で決着したのです。
全く理不尽な怒りとしか言えませんでした。
すぐにMXテレビの収録現場にまで足を伸ばしたものの、誰も彼をかばってはくれませんでした。
弟弟子、志らくもあまりにものすごい剣幕で怒る談志に怖れをなし、無言だったそうです。

解決にいたるまでの談四楼の苦悩には痛々しいまでのものがあります。
胃が猛烈に痛くなり、知り合いの医者に家元の症状を全部話して、相談に乗ってもらったり、世話になっている社長にあらいざらい、事情をぶちまけたりもしました。
このあたりで完全に談志の脳は壊死していたのかもしれません。
他者に対する認識力が格段に落ち、区別もつかなくなっていたようです。
その後、まもなく死を迎えます。
平成23年11月22日。享年75。

12月21日、ニューオータニでのお別れ会の様子がまるで実況中継をみているような書きぶりで細かに描写されています。
石原慎太郎の弔辞、神が降りたといわれる芝浜を映すスクリーンの様子。
また正月、立川流の今後をどうするのかという話し合いの様子もリアルでした。
立川流の代表に誰がなるか。それぞれの思惑が交錯します。ちょっとはらはらする展開です。
外様の文字助はいち早く降り、生え抜きの総領の里う馬に決まりました。さらに理事を決め、顧問が決まります。
なかにはこれで解散した方がいいと考えていた連中もいたようです。このあたりの駆け引きも面白い。
結局は一匹オオカミのあつまりです。
親分亡き後をまとめるのはさぞや難しいことでしょう。

もう一つ面白かったのは柳家権太楼と談四楼との確執です。これはまったく知らない話でした。
彼の真打披露に権太楼が欠席したということから始まったもののようです。
しかし師匠つばめが死んで小さんに預けられた当時はまだほたる、後の権太楼です。
まさか、そこから袂を分かった立川流の披露には行けなかったのでしょう。
このあたりの微妙な流れと、後の和解にいたる話も大変に興味深いものでした。

談志という噺家の存在がとにかく人騒がせであったことは間違いがありません。
そのことを最古参に近い古い弟子の目から見ると、こんな風な物語になるのかと思ったのも事実です。

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