萬事気嫌よく

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桂枝雀が亡くなって15年が経ちました。
月日は容赦ないものです。
1999年4月でした。
鬱病との戦いの果てに自死したのです。

先日も枝雀ワールドを掘り下げた2時間番組の再放送がありました。
亡くなった後も、彼の芸に対する評価が、落ちることはありません。
というより、ますます高くなっているのではないでしょうか。

この本は大阪朝日新聞に連載されたものを、一冊にまとめたものです。
実に丁寧に彼の足跡をまとめています。
1939年、神戸に生まれた前田達少年の子供時代が見事に活写されています。
朝日放送のラジオ番組「漫才教室」に出場し、米朝と面識を得たことが大きなターニング・ポイントになりました。
しかし母親は最後まで入門を許しませんでした。

父親のいない苦しい家計を助けるため、昼は高校の用務員、夜は定時制に通いました。
試しに受けた神戸大に合格したのもこの頃のことです。
英語が得意でした。
後にこの語学の才能が、英語落語として花を咲かせます。
ついに説得の甲斐があり、米朝の弟子となり、小米を名乗ります。

稽古熱心などというものではありません。
ひとたび、噺の稽古に入ると、師匠の子供を連れて、どこへいってしまうかわかりませんでした。
しかしまもなく鬱病に見舞われ、高座にも上がれなくなります。

米朝にとってもこの弟子の存在が大きな刺激になったことは間違いありません。
やがて病も癒え、桂枝雀を襲名した途端、それまでの芸風がガラリとかわります。
この変化はまさにドラスティックといえるものでした。
なにが彼をそうさせたのでしょうか。

このテーマは実に興味深いと思います。
笑わなかった枝雀は、無理にでも笑いの仮面を自らにかぶせます。
普段はニコリともしないつまらない男が、高座に上がった途端、ずっとにこにこと笑みを絶やさなくなったのです。
苦しかったかもしれません。
緊張の緩和という彼独自の落語理論をつくりあげていったのも、この頃のことでした。

歌舞伎座での枝雀三夜、サンケイホールでの枝雀十八番。
どれもが歴史に残るものです。
テレビドラマへの出演も増えていきました。
弟子も8人になりました。
そんなこんなの日々に疲れたのかもしれません。
鬱病の再発ととともに、高座に出られない月日が重なっていきます。
約1年半後、桂枝雀は心不全で亡くなりました。
わずかに59才でした。

たくさんの動画が残っています。
筆記された噺もかなりの数にのぼります。
萬事機嫌良くを念じ続けた噺家は、とにかくお客さんを笑わせたいという一心で、見てはならない芸の深淵を覗いてしまったのかもしれません。

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