狂い考

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落語
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 個人的な感想ばかりを書いて、このブログもかなりの分量になりました。

自分メディアというものの本質はそんなもんでしょう。
今日はいつもとちょっと趣向を変えまして、狂うということについて考えてみます。

落語三百年の伝統とよくいいますが、最初の頃はやはり滑稽な噺が好まれたようです。
安楽庵策伝を待つまでもなく、お伽衆というのもそうした要素を持った人々でした。
やがて三遊亭圓朝が出現し、怪奇譚や怪談なども高座で演じられるようになりました。
江戸では人情噺も多く語られましたが、やはり主流は滑稽噺につきるのではないでしょうか。
五代目柳家小さん直系の弟子達は数からいっても、東京では隆盛を誇っています。

しかし三遊亭圓丈が作り出した新作の世界は瞬く間に強い力を得ました。
誰もが江戸の風を好んだわけではありません。
ハっつぁん、熊さんとご隠居が渉猟する時代のものではなく、現代そのものを別の感覚で捉えた落語も多数登場しています。
SWAに代表される新作派はかなりの動員力を手にしました。
それだけ時代が複雑になったといえるのでしょう。
江戸の風景と人情だけでは掴みきれない人心が確かにそこにはあります。
世代のギャップも厳然と存在します。

日々の日常の中で、どうしても解決のつかないテーマ、それをこれからの落語が掬いとれるのかどうか。
噺家の感性の中にそうしたものがあるのかどうか。
鋭く試されているのです。
少し前の時代と同じギャグを入れて、無理に笑いをとろうとするタイプの演者は消えざるを得ないでしょう。
まさに時代感覚が要求される所以です。

もちろん、今までの古典と呼ばれるものがなくなるとは思えません。
この方向性は、ずっと人間というものがそこで生々しく語られる限り、続くはずです
しかし明らかに取り上げられなくなった演目も今日増えています。
そういう意味でいまが正念場なのかもしれません。

これからの時代のキーワードはなにか。
シュールであることは大切でしょうが、あまりに強く押し出すと、多くの観客を積み残していくこともあり得ます。

「狂気」という考え方はどうでしょう。
人はここではないどこかへ誘ってくれるもう一人の誰かを待っています。
その水先案内人として狂うことのできる芸人が、存在してもいいのではないでしょうか。

三遊亭遊雀と柳家喬太郎にはそれがあるような気がします。
それも客とのダイナミズムでかなり自由に展開できる広さと深さをもった芸人として…。。

遊雀の初天神。金坊は完全に向こう側の世界にいっています。
あの子供の目の異様さは並のものではありません。
喬太郎の擬宝珠などという噺にも、そうした要素が強いのではないでしょうか。

噺をしながら目がふっと遠くへ流れていく瞬間、明らかに彼らは狂う予感に満ちています。
ともに50才前後です。
それぞれにつらい何度かの試練を乗り越えて、見るべきほどのことは見てきた人たちです。
お客の目にさらされながら、自分の深みに降り、狂気に近づくさまをこれからも興味を持って見続けたいです。

演者はある意味、時代を超克し、射ぬく眼力も身につけなければなりません。
その覚悟があれば、さらに今よりも前へ出られるのではないでしょうか。

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