なぜ「小三治」の落語は面白いのか

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なぜ面白いのかと言われても、面白いものはおもしろいのです。
あえて、なぜかと訊かれれば、それは人間が描けているからということに尽きるのではないでしょうか。
どんなに面白いと噺家が思って、力を入れて喋ってみても、そこにああ、こういう人間もいるよなという共感がなければつまらない。
それが落語の魅力なんでしょう。

先代の小さんに言われた台詞、おまえの落語は面白くねえなあは、小三治の肺腑をえぐりました。
おまえの落語と言われたのでは、まさに全否定です。
どうしたら面白くなるのかという自問自答がそれからずっと続いたのです。
志ん生の言った台詞。
落語は普通に話せば、それだけで十分に面白い。
だから笑わせようとしなくていい。
無理におかしくしなくていい。

ふわりとした世界がそこに見えればいいと考えるようになりました。
先代の可楽のあのぼそぼそとした話し方…。
当代の扇橋の茄子娘…。
あの実にゆったりとした世界の持つ心地のよさ。
どちらも小三治にとっては貴重なものだったと言います。

しかしなんといっても先代小さんのあの朴訥な話しぶりでしょうか。
あれがやはり理想であると彼は明言しています。
最近の小三治はさらに面白くしようという努力からはずれ、自分の世界に浸ろうとしているかのようです。
つまらないくすぐりはいっさい省き、それでいて、小三治にしか出せないものを探し続けています。

前半のインタビューも味わいに満ちています。
しかし後半の90にのぼる噺の要諦が見事です。
ここまで聞き込んでくれる人がいるというだけでも、噺家冥利につきます。
三鷹でやった「千早ふる」のすごさ。
この時は他のもっと長いものもやるつもりだったのに、この一席だけで、感無量になり、話者も聞き手も心が満たされたといいます。
そういう出逢いをもとめて、小三治の噺を聞き続けたのでしょう。

全編にわたって小三治へのオマージュに満ちています。
しかしその耳の確かさの底に、あたたかい心遣いがたっぷりと潜んでいる。
それが読んでいる者を心地よくさせるのです。
心憎い解説が載っています。
こういう聴き方もあるのだなという、別の角度を今回見せてくれました。

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