大人の落語評論

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落語の評論というのには、どうも食指が動きません。
なぜでしょうか。
映画でも、演劇でも評論家と名がつくまでになるのは、生半可な知識や経験だけでは駄目でしょう。
一家言を持つようになるまでの道のりは、大変遠いものがあると想像されます。

蘊蓄をいくら語られても、ああそうかと思うだけです。
特に落語という芸には、好みが色濃く反映するようです。
安藤鶴夫のように、いくら人気があっても自分が気にいらない芸人は絶対に評価をしないという、徹底した姿勢をとった人もいます。
正岡容は評論も書きましたが、故桂米朝の師として、上方の噺家を大きな一枚看板に仕立て上げました。

さてネットの時代になって、落語評論はますます難しくなっています。
誰もが何でも呟けるようになったからです。
しかしだからといって、質を保つのは容易ではありません。

噺家の数も日々、増えています。
圓丈以後の新作をどう評価するかということも、試金石になっているようです。
柳家つぱめのように、かなり詳しい新作論を書いた芸人もいました。
古典だけが落語だと、言い放って暢気にしてもいられません。
毎日のように落語を聞き続け、評論を書いている堀井憲一郎、広瀬和生のような人もいるのです。

しかし落語という芸能はそれほどに難しい論陣をはるような性質のものでは、おそらくないのでしょう。
ふらりと入った寄席で、ふと非日常の世界を垣間見たというあたりが、自然なのかもしれません。

筆者は古今亭右朝にいつか評論家になればいいじゃないかといわれて、かなりの年月を過ごしたと書いています。
ほぼ30年前のことだそうです。
期待して読んでみましたが、「大人の」とわざわざ断るほどではなかったようです。
何が大人なのかという概念もはっきりと示されていません。

後半に現役の噺家に対する批評が少し載っています。
存命中の人の中では、小三治、圓丈、雲助、権太楼、さん喬、小満ん、鯉昇、米丸、笑三、川柳、志らく、つくし、昇吉、宮治までが網羅されています。
最近戸越銀座で会えなくなったという宮治のエピソードには、妙なリアリティがありました。

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