東京生まれの噺家が随分と少なくなったと聞きます。
なんでも芸協が2割、落語協会が6割というところだとか。
噺の中に江戸の風を吹かせられるかというのは、大変なテーマです。
それほどに難しい。
生志が入門を志願した時、師匠談志はやめておけと呟いたそうです。
博多生まれじゃ、訛りがとれない。
一生ばかにされて、つらい思いをするだけだぞ。
それでも赤木青年は諦めず、やがて笑志という高座名をもらって噺家になりました。
そこからの道のりの遠さには頭が下がります。
筋がよかったのか、そこそこの期間で二つ目までにはあがりました。
しかし何年たっても真打ちにはなれません。
歌舞音曲と落語100題。
このハードルを越えるのは並々のことではありません。
噺はかなりよかった。
賞も随分取りました。
しかし歌と踊りがうまくいきません。
あちこちの師匠に習いました。
それでも談志は首を縦にふりません。
観客を満員にして、真打ちになるための落語会まで催しました。
それも一度だけではなく、二度までも。
それでも家元はなんか違うと首をかしげるだけ。
山藤章二が推薦文まで書いてくれました。
しかし結果はノー。
一生、二つ目のままでいいと諦めた頃、父親が他界します。
その話をした時の談志の表情。
父親は談志が嫌いでした。
あんな気の小さな男のとこへいってどうするんだ。
それでも、入門の時、頭だけは下げてくれたのです。
談志もしまったと後悔したのでしょう。
このあたりは、芸の道というより、生身の人間の感情のぶつかり合いです。
生志が師匠に抱いていた憎しみははかり知れないものがあったと思われます。
本当に刺し殺してやろうと考えたこともあるとか。
その後、立川流顧問、吉川潮の細君でもある、柳家小菊に端唄、踊りなども習い、ついに真打ちへ。
その時も、近くのスナックで、なりたきゃなるがいいじゃねえかと言っただけとか。
談志という人間の持つ厄介な性格が、そのままあらわれた表現でもあります。
苦しんでいた時代を支えてくれたのは、兄弟子の志の輔でした。
真打ちになれたという電話をしたとき、志の輔は電話口で泣いたと言います。
その後、大病をし、8時間にも及ぶ大手術を受けました。
師匠亡き後、この20年は無駄ではなかったとしみじみ感じているようです。
弟子と師匠はというのは、いったいなんなんでしょうか。
愛憎などという言葉では語れない、人間の物語そのものです。
読後感は悪くありません。
しかしもうそろそろ、立川流の話ともお別れの時期がきています。
今度は何を読みましょうか。