世間も他人も気にしない ひろさちや 文藝春秋 2008年6月

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 ひろさちやの書くものはますますやさしくなっています。かつては宗教の難解な本も多々ありましたが、もうそういう時期は突き抜けたということなのでしょうか。啓蒙書です。気楽に読むことができました。
一言でいえば、もう勝ち負けにこだわるのはやめようということです。そこからあらゆる苦しみが生まれるからです。日本人は他人との違いにめざとく、勝敗ばかりを気にして生きてきました。狭い国土で農業を専一にしていれば、ある程度は仕方のないことだったでしよう。その結果として、現在があるのです。
人間は不完全で愚かで間違いを犯す。これを親鸞は悪人と呼びました。ぼくたちが普通に使っている善悪の悪ではありません。善人が極楽往生できるのは当たり前なことでしょう。それだったら、ごく普通の迷ってばかりいる、失敗ばかりしている凡夫だって極楽往生できるじゃないですかというのが、親鸞の考え方でした。
彼は競争するなといっているわけではありません。しかしもっともっとと呟いているうちに地獄に堕ちていくことになるのです。欲望には際限がありません。小欲知足という言葉をかみしめることが大切だと主張しています。
祈りには請求書の祈りと領収証の祈りがあるといいます。ぼくたちはいつもあれしてくれ、これをかなえてくれと自分本位の勝手な請求書を突きつけます。しかしそれではなんの祈りにもなりません。感謝して、全てをまかせますという祈りを捧げなくてはならないのです。
南無阿弥陀仏というのはそういうことです。南無という表現はあなたに全てを委ねるという意味なのです。
ということはいかにインチキな宗教が多いかということでしょう。葬式仏教全盛の時代です。
騙されてはいけないなとしみじみ感じました。
趣味で貧乏な生活をしていた江戸市民の方が今よりもずっと豊かな心の風景を持っていました。お金はいくらあってもまだ欲しいものです。だからこそ、阿修羅にならずに生きていく方法を体得するのは至難の業です。しかしただの人間として、間違えてもいい、失敗してもいい、偉くならなくてもいいと考え、生きていくことが大切です。
偉い人が幸せな訳でもありません。道徳にしばられすぎると息苦しくなります。
頑張れの連呼は人を疲れさせます。勝ち組になるためには無理をしなくてはなりません。どんな人生が一番自分に向いているのか、もう一度じっくり考えるいい機会になりました。

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