怯えの時代 内山節 新潮社 2009年2月

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 昨日の小論文説明会で講師が一番に推薦していた本です。ここから今年の問題は出る予感がしますという話でした。さっそく今日、時間がありましたので、読んでみました。新潮選書に所収されています。
内容は一言でいえば「不安」が一歩進んで「怯え」の時代になったというものです。与えられた自由の中で生きてきた我々は、今やその自由にうんざりし、自然破壊が進む中で、どこへ向かえばいいのか、完全に方向を見失っているというものです。
特に冒頭の部分は衝撃的なものですので、少し長いですが引用してみます。これは秋葉原での無差別殺人に言及した部分です。

報道されていることをみるかぎり、この青年はうんざりした自由のなかで生きていながら、自在に生きた経験をもたないということになる。学生時代にも自在には生きていなかったようだ。仕事をするようになっても変わらなかった。事件をおこした頃は、自動車会社の派遣社員として働き、宿舎との間を往復していた。いつでも解雇されうる身分のなかにいた。将来給与が上がっていく「楽しみ」もなかった。そして単なる数の一人として生きている自分を感じていた。
それを、かけがえのない自分ではなく、交換可能な自分、といってもよい。交換可能な派遣社員であり、交換可能な一人の人間である。
この現実を承認しさえすれば、青年は自由を手にすることができたのである。ネットのなかにもう一人の自分をつくりだすこともできただろう。映画をみたり、音楽を聴いたり、今日の夕食を考えたり、旅行計画をたててみたり。そうだ、自由人になることはできたのだ。たとえ収入は少なくても、少々の工夫によってそれらのいくらかは実現することができたはずだ。
青年の悲劇はそのことのなかにうんざりした自由をみてしまったことだ。自在に生きていない自分をみてしまったことだ。もしも彼女がいたらこんなことはしなかったと青年は語っていたと報道されている。彼女がいるということは、制約されるということだ。自由のひとつを失なうということだ。時間は自分だけのものではなくなるだろう。お金の使い方も制約されることだろう。だがそのことが、自分を包んでいるうんざりした自由、孤独な自由を払いのけてくれるかもしれないと期待していた。
犯行を止めてくれる誰かが現われてくれることに期待していたのも同じことだ。その人が現われたら、自分の行動は制約される。思うがままに犯行を実現するという自由のひとつが失なわれる。だがそこにうんざりした自由の連鎖からの脱出を期待した。

今日、我々は自分の意志に関係なく、巨大なネットワークの中に組み込まれています。それに対してNOを言うことは、もはや許されないのです。自然は無限にあるという前提によって組み立てられた今のシステムが破綻しつつあることは、誰の目にも明らかです。世界経済の先細りをあらゆるものの債券化で乗り越えようとした結果、普通なら考えられないプライムローンなるものを作り上げ、予想通りみごとに崩壊しました。
日本においても、格差問題が深刻です。多くの人間を効率優先で部品化し、いつでも首が切れる派遣社員にしたことにより、市場経済はかつてより息苦しい先の見えない状況になりつつあります。
それではいったい我々はどこへ向かっていけばいいというのでしょうか。
そのことが後半で語られます。そこにはかつて無尽などで行われてきたあたたかい貨幣への転換とか連帯とか、さまざまな概念が出てきます。さてそれで本当に解決が図られるのかどうかは未知数だと言わなければなりません。しかしそうしたことに頼るしか、もうどこにも糸口が見出せないというのも、また現実なのでしょう。
厳しい現実認識の本です。18世紀に『人口論』を書いたマルサスは近い将来かならず、人口が爆発的に増大し、食糧問題が勃発すると予言しました。この予言を越えて、現実にはここ10年の間に起こった日本の農業をめぐる実態も目を覆うばかりです。
豊作の陰で、米の出荷価格は下落する一方です。償却費を差し引くと、全く利益が出ません。原油高がこれに追い打ちをかけました。漁業においても、実情は同じです。油代が高すぎて、出漁もできません。
不安が怯えにかわった時代をどのように生きていけばいいのか。後半に提出された考えを自分なりにさらに深めていかなければと感じました。

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